# すずめひゃくまでおどりわすれぬ
す
雀百まで踊り忘れず

種類:京都かるた
杖をついた老雀が、不機嫌な顔でツイストを踊っている。なぜ最新のダンスではなくツイストなのか——描き手の中の「踊り」が、若い頃で止まっているからである。ことわざの証拠は雀ではなく、描いた本人だった。雀百までの実例集。
前の札「論より証拠」で、私はうっかり 「三つ子の魂百まで」と書いた。
ところが、あのことわざ、いろはカルタには入っていない。 代わりに京都かるたの「す」に、同じ意味の札がある。
雀百まで踊り忘れず
雀は死ぬまでぴょんぴょんと跳ね回る。 同じように、幼い頃に身についたものは、一生変わらない—— という意味である。
三つ子の魂が雀に化けただけで、言っていることは同じだ。 というわけで今回は、この老いた雀の話をしたい。
まず、絵をご覧いただきたい。
帽子をかぶり、マフラーを巻き、杖をついた老雀が—— ツイストを踊っている。
雀に杖を持たせるのは、我ながら無理のある表現である。 だが描きたかったのは、あの矛盾だ。 杖が要るほど老いて、なお、腰は踊りを覚えている。 足元はよろけても、リズムだけは裏切らない。
顔つきに注目してほしい。 楽しそうには、描いていない。むしろ不機嫌である。 踊りたくて踊っているのではない。体が勝手に踊るのだ。
「忘れず」ということわざの本体は、実はここにある。 忘れないのではない。忘れられないのである。
ここで、雀のうんちくを一つ。
雀が地面を移動するとき、歩かない。 両足を揃えて、ぴょん、ぴょんと跳ねる。 (ちなみに、同じ小鳥でもハトやセキレイはてくてく歩く。)
昔の人は、この跳ね歩きを「踊り」と見立てた。 そして雀は、若かろうが老いていようが、生涯この跳ね方を変えない。
つまりこのことわざ、比喩である前に、 正確な野鳥観察なのだ。 観天望気の回でも思ったが、昔の人の観察眼には、つくづく恐れ入る。
さて、このページを書き直していて、 私は自分の絵に、妙なことを発見してしまった。
老雀が踊っているのは、ツイストである。
考えてみてほしい。 踊りなら何でもよかったはずだ。 ヒップホップでも、ブレイクダンスでも、最新の何かでも。
なのに私の手は、迷わずツイストを描いた。 なぜか。
描いている私の中の「踊り」が、 若い頃に覚えたところで止まっているからである。
雀百まで踊り忘れず—— このことわざの証拠は、絵の中の雀ではない。 その雀にツイストを踊らせた、描き手のほうだった。
論より証拠の、翌ページである。 またしても、頼んでもいない証拠が出てきてしまった。
いや、証拠はツイストだけではない。
数学好きのガキは、統計でエッセイを書く老人になった。 天文同好会の少年は、星空の女性を描き続けている。 雨に降り込められた子は、傘を239本描いた。 「証拠は?」のガキは、販売台帳を読む男になった。 昼飲みしていた若者は、立ち飲み屋の絵の中に、まだ座っている。
——お気づきだろうか。 当サイトの連載は、まるごと「雀百まで」の実例集なのである。
若い頃に身についたものは、消えない。 形を変え、絵になり、文章になって、跳ね続ける。
なお、若い頃に追いかけていたものが 今も一万点ほど描かれ続けている件については、 家内の視線を感じるので、これ以上は略す。
旧版の私見に、私はこう書いた。 「人生百年、長いようで短いよね」
今なら、もう少し正確に言える。
半世紀生きても、魂は三つ子のまま、踊りはツイストのまま。 中身がこれだけ変わらないのだから、 百年あっても、踊り足りないに決まっているのだ。
老雀は、今日も不機嫌な顔で腰をひねる。 杖をつきながら、次の札へ、ぴょん、と跳ぶ。
雀百まで踊り忘れず|老雀は、なぜツイストを踊るのか

👆15233 点の検索可能な独自イラスト