# むまのみみにかぜ(ばじとうふう)
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馬の耳に風(馬耳東風)

種類:京都かるた
馬の耳に風(馬耳東風)
ことわざ「馬耳東風」を題材に、人間関係や政治における“言葉が届かない”状況を描いたエッセイです。李白の詩に由来するこの言葉は、忠告や意見が無視される様子を象徴しており、現代の政治における市民の声と為政者の応答の乖離を鋭く照らします。言葉を風に乗せて届けるためには、表現の工夫と対話の姿勢が不可欠であることを詩的かつ批評的に論じています。
実は、お題を「馬の耳に念仏」だと勘違いしていました。けれども、今となっては馬の耳に風(馬耳東風)という言い回しの方が、より現代的な響きを持っているように感じます。馬耳東風は、中国の詩人・李白の詩『答王十二寒夜独酌有懐』に登場する言葉です。「世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳」──世の人々は詩を聞いても首を振るばかりで、まるで春風が馬の耳を吹き抜けるように、何も感じ取らない。
この言葉は、他人の意見や忠告をまったく気に留めず、聞き流すことのたとえです。『馬の耳に風』もまた、馬が耳を立てず、人の言葉が通じない様子を表しています。つまり、相手に何を言っても意味がなく、効果がない状況を示す言葉です。
このことわざは、人とのコミュニケーションが上手くいかず、相手に伝わらない場合に使われます。あるいは、相手が自己中心的で、自分の都合ばかりを優先し、他人の意見に耳を傾けようとしない場合にも当てはまります。
そして今、私たちの社会──とりわけ政治の世界──においても、この「馬耳東風」の構図が繰り返されています。国会での議論、記者会見、市民の声。どれほど真摯な問いかけがあっても、まるで春風が馬の耳を撫でるように、政権の耳には届かない。たとえば、少子化対策や経済格差の是正、環境政策への懸念など、国民の切実な声が上がっても、政策の方向性は既定路線のまま。説明責任を果たすべき場面でも、言葉は空転し、実質的な対話は成立しない。
このような状況において、私たちは「馬耳東風」の風景をただ嘆くだけでよいのでしょうか。李白の詩が示すように、詩人はその不条理を詩に託し、風に乗せて世に問いました。私たちもまた、言葉を磨き、問いを編み、風を起こす必要があるのではないでしょうか。
相手に自分の意図を理解してもらうためには、相手の立場や状況を考慮し、適切なコミュニケーション手段を選ぶことが重要です。政治においても、声を届けるためには、ただ叫ぶだけではなく、届く形に整える工夫が求められます。もしそれでも届かないならば、私たちはその「届かなさ」そのものを問い直すべきなのです。
さて、「馬の耳に風」は絵として表現するのは困難ですね。ですので、馬の耳に念仏で許してください。登場人物の坊さんは頭を剃っている姿でそれらしく描けるため、簡単に表現できます。けれども、もしこの絵に現代の政治家を重ねるなら──念仏を唱える坊さんの声は、果たして届くでしょうか。それとも、またしても春風のように、耳をすり抜けていくのでしょうか。
馬の耳に風(馬耳東風)

でも「馬の耳に風」どんな絵になるんだろう。
風のある日に馬がいてなんともないよっていう絵かな。普通の馬ですね。ということでこんな感じ。
やっぱりつまんないわ。