# がりょうてんせいをかく
か
画竜点睛を欠く

種類:その他格言
「15,000点」と掲げて実は14,950点——当サイト自身が画竜点睛を欠いていた。原典で目を欠いた竜だけが壁に残ったように、「欠く」とは保存であり、「点睛」とは別れである。ならばダウンロードボタンとは、点睛なのだ。
画竜点睛を欠く—— 見事に仕上がっているのに、肝心の最後の一筆が欠けている状態をいう。
この記事を建て替えるにあたり、まず白状せねばならないことがある。
当サイトは長らく「15,000点のイラストを閲覧可能」と掲げてきた。 ところが実際に数えると、14,950点だった。
ことわざ・格言の一点ものたちを出し惜しみしていた、例の一件である。 50点欠けた看板——つまり当サイトは、 サイトぐるみで画竜点睛を欠いていたのだ。 ついでに言えば、看板と中身が違うのだから羊頭狗肉でもあった。 二つのことわざに同時に叱られる、器用な状態である。
先日の全面開放で、数字はめでたく15,000を超えた。 看板に、ようやく目が入ったのである。 この記事は、その記念に建て替える。
三年前の私は、この故事を 「皇帝に命じられた画家が竜に目を入れたら、絵ごと飛んでいった」 と、うろ覚えで書いていた。おおむね合っているが、原典はもう少し派手だ。
時は中国・梁の時代。名画家、張僧繇(ちょうそうよう)。 金陵の安楽寺の壁に、四匹の白竜を描いたが、どれにも目を入れなかった。
「目を入れれば、飛び去ってしまうから」
人々は信じず、目を入れろとせがんだ。 根負けした張僧繇が、四匹のうち二匹に目を入れると—— たちまち雷鳴がとどろき、壁を破って、二匹は天へ昇っていった。
そして、ここが肝心なのだが。 目を入れなかった残りの二匹は、壁に残ったのである。
旧版で私は、こう書いていた。
通説では「肝心な仕上げを欠くのは良くない」という戒めなのに、 原典を読むと「最後の一線を越えたら、絵を失った」話に読める。 苦労した絵がなくなったのだから、目など入れなければよかったのでは—— どうにも釈然としない、と。
三年越しに、原典を読み直して、腑に落ちた。 鍵は、壁に残った二匹である。
目を欠いた竜は、手元に残る。 目を入れた竜は、完成した瞬間、作者のもとを去る。
つまりこの故事、「欠く」とは保存であり、 「点睛」とは、別れの儀式なのだ。
完成とは、作品が作者の壁を離れて、 世の中へ飛び立ってしまうこと。 張僧繇が目を入れたがらなかったのは、 未完成主義ではなく、たぶん、親馬鹿だったのである。
……どこかで聞いた病である。
メインの絵は、白髪の絵師が、 壁一面の龍にまさに目を入れようとしている瞬間を描いた。
制作上の苦労を言えば、龍は近影にすると目は強調できるが 全体の威容がつかめず、遠影にすると目が潰れる。 「目」が主役のことわざだけに、この距離の取り方が難しかった。
そして今、あらためてこの絵を眺めて、気づいたことがある。
この龍が飛び去らないのは、筆が永遠に「直前」だからだ。
点睛の一瞬手前で時を止めることで、 絵の中の龍は、いつまでも絵師のそばにいる。 図らずもこの絵は、「欠く」ことの効能—— 手放したくないものは、完成させないこと——を描いていたらしい。
ここで、当サイトの話に戻る。
絵を公開するとは、どういうことか。 誰かがダウンロードボタンを押すたび、 絵は作者の壁を離れて、見知らぬ誰かのもとへ飛んでいく。
——そう、ダウンロードボタンとは、点睛なのである。
出し惜しみしていた一点ものたちは、 言ってみれば、目を入れずに壁に留めていた竜たちだった。 先日、私はその全員に目を入れた。
15,000匹の竜が、いつでも飛び立てる壁。 それがこの町の、現在の姿である。 雷鳴は鳴らないが、台帳には一匹ずつ、旅立ちの記録が残る。
三年前の私見に、私はこう書いた。
「昔から詰めが甘いと言われ続けており、 物心ついてからずっと画竜点睛を欠いた状態です」
この体質は、今も治っていない。 だが張僧繇の故事を知った今、言い訳だけは上等になった。 詰めを甘くしておけば、竜は壁に残るのだ。 私は未完成なのではない。手放していないだけである。 (この理屈が家内に通用したことは、一度もない。)
なお旧版には「2024年は辰年。ドラゴンズ優勝しないかな」とも書いていた。 あの願いがどうなったかは、あえて答え合わせをしていない。 詰めの甘い男は、願いの回収も甘いのである。
辰年は過ぎたが、龍の絵の出番が消えたわけではない。 干支は十二年で必ず巡ってくる、気の長い季節商品だ。 次の辰年は2036年—— そのときこの壁の竜たちは、もう全員、目が入っている。
いつでも、飛べる。
画竜点睛を欠く|50点欠けていた町に、目が入った日

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