# はなよりだんご
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花より団子

種類:江戸かるた, 大阪かるた
「花より団子」は団子派への風刺である。だが当ページは弁護に回る——花見は最初から宴会装置として設計され、桜の下の酒はただの酒よりうまい。我々は花を見ていないのではなく、浴びているのだ。花ごと団子、である。
花より団子——江戸かるた、大阪かるた、両方に採用された人気の札である。
風流な花の美しさより、食える団子を取る。 「見た目より実利」「風情を解さない」—— つまりこのことわざ、団子派への風刺として作られている。
三年前にこのページを書いたとき、私はこう記した。 「その内容をまとめてみると、なんだか腹立たしく感じますね」と。
三年経っても、腹立たしさは変わらない。 なぜなら私は、筋金入りの団子派だからである。
そこで本日は、建て替えにあたり、方針を明確にする。 このページは、団子派の弁護に回る。
旧版のメインは、誕生日に花とお菓子をもらって、 お菓子のほうに夢中な女の子の絵だった。 例えとしては成立していたが、どうにも「お仕着せ」だった。
考えてみれば、このことわざには本場があるではないか。
花見である。
そこで、メインの絵を交代させた。 満開の桜の下、ご馳走を広げて宴に興じる人々——
この絵、よく見てほしい。 頭上は花盛りだというのに、誰一人、桜を見上げていない。 全員の目線は、料理と、酒と、向かいの顔にある。
例え話ではない。これは、ことわざの現場写真である。 そして日本中の花見会場で、毎年春に撮れる写真でもある。
ここで、団子派の弁護材料を歴史から一つ。
庶民の花見文化が花開いたのは江戸時代。 八代将軍・徳川吉宗が、飛鳥山や隅田川堤に桜を植えさせ、 庶民の行楽地として開放したことが大きいとされる。
つまり、あの桜並木は、 静かに花を鑑賞させるためではなく、 人々が集まって飲み食いし、憂さを晴らすための装置として 植えられた側面があるのだ。
花は集客係。宴が本体。
だとすれば「花より団子」は、風流の堕落ではない。 花見という施設の、設計通りの使い方なのである。 吉宗公も、まさか三百年後に客が正座して花だけ眺めていたら、 かえって困惑されるのではないか。
もう一つ、職業上の証言をしておく。
ストックイラストの市場は、完全に「花より団子」で動いている。
買い手が選ぶのは、美しい絵(花)ではなく、使える絵(団子)だ。 意味が一瞬で伝わり、記事やバナーの用が足りる絵。 当連載で散々検証してきた通り、 芸術性で勝負した佇む女性たちは売れず、 用件のはっきりしたソフトクリームの彼女が売れた。
花より団子は、風刺どころか、 私の台帳に毎日記録されている市場の物理法則なのである。
団子を笑う者は、団子に泣く。
白状すれば、私の花見は、もっぱら酒である。
酒無くて何の己が桜かな—— 江戸の川柳は、まったくもって正しい。
だが、最後にこれだけは言わせてほしい。 団子派は、花を無視しているのではない。
桜の下で飲む酒は、ただの酒より、確かにうまいのだ。 花冷えの空気、はらはらと杯に落ちる花びら、 薄紅色の天井の下のざわめき—— あれら全部が、酒の肴になっている。
つまり我々は、花を「見て」いないだけで、 全身で「浴びて」いるのである。
花より団子、にあらず。 花ごと団子、である。
満開の下で誰も見上げないあの絵の人々も、 ちゃんと桜の光の中にいる。 団子派の花見として、あれで何も間違っていない。
今年も春が来たら、桜の下で杯を上げよう。 花には、集客係としての礼を尽くして—— 乾杯の一瞬だけ、見上げることにする。
花より団子|団子派の、弁護をさせていただく

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