日本で「争い」と言えば、だいたい 夫婦喧嘩・親子喧嘩・職場の対立 の三点セット。
世界の紛争地帯から見れば、もはや“日常の湿度”くらいのレベルだ。
ニュース番組も、事件の再現に本物の写真を使うと角が立つから、
結局イラストに頼る。
怒りマークを描けば怒っているし、青ざめさせれば落ち込んでいる。
この国では、感情は記号化できればそれで十分らしい。
平和とは、ここまで人を鈍らせるものなのかと時々思う。
そんな背景もあって、私は「争い」系イラストを量産している。
夫婦喧嘩、親子喧嘩、職場の対立――ここまではまだ健全だ。
しかし、作り続けていると、脳の“争いセンサー”が壊れてくる。
気づけばフォルダには、
ひったくり犯に正拳突きをかます女子高生
熊と互角に戦う女子高生
など、もはや“争い”というより“人類の新しい可能性”が並ぶ。
買い手がいるのか。
知らない。
だが、売れる。
この国には「熊と戦う女子高生」を必要とする人間が一定数いる。
その事実が一番のホラーだ。
「熊と戦う女子高生」を必要とする状況とは何か。
教材なのか、啓発ポスターなのか、ただの趣味なのか。
考えれば考えるほど、社会の深淵が見えてくる。
平和国家の住人は、
現実の争いは嫌だが、イラストの争いなら見たい
という、妙に安全志向な刺激を求めているのかもしれない。
血は見たくない。
でもスリルは欲しい。
責任は負いたくない。
でも刺激は欲しい。
そんな国民性が、女子高生と熊を戦わせているのだとしたら、
それは文化的バグであり、国民的な矛盾である。
PIXTAに見切りをつけて、Adobe Stock への参戦を考えている。
しかし“世界市場”という言葉を考えただけで、
日本の争い観がどれほどローカルなのかがよく分かる。
地域によって「争い」の意味はまるで違う。
この差を前にすると、
「熊と戦う女子高生」はむしろ“平和国家の幻想文学”として成立してしまう。
世界の人々がどう受け取るのか、正直まったく読めない。
ただ一つ言えるのは、
日本の争いは、世界基準で見ると“争い未満”である
ということだ。
さて、次はどんな争いを描こうか。
熊と戦う女子高生の次は、
自分の影と戦うサラリーマン
あたりが妥当かもしれない。
需要があるかどうかは、もう考えない。
平和国家の住人は、どんな争いもイラストにすれば“安全な刺激”として受け入れる。
それがこの国の、静かで奇妙な狂気だ。