「思案する人を描いてください」。
私はこの依頼をよく受けるのだけれど、実はとても厄介だ。
怒りには眉間、喜びには口角という“わかりやすい記号”がある。
しかし“考える”には、それがない。
腕組み、顎に手、上目遣い——
こうした「考えてますよ記号」は、漫画や広告が育ててきた文化的な産物にすぎない。
実際の人は、そんなに都合よくポーズを取ってくれない。
だから私は、毎回ゼロから“思案のかたち”を探すことになる。
そして皮肉なことに、この“決定的なポーズのなさ”こそが、思案イラストの需要を広げている。
人によって、場面によって、求められる“思案”がまったく違うからだ。
思案を描くとき、私がまず頼りにするのは“目”だ。
どれも「考えている」ようでいて、意味は微妙に違う。
視線の角度ひとつで、人物の性格や思考の深さまで変わってしまう。
この繊細さが、面倒でもあり、面白くもある。
時には、私は潔く「?マーク」に登場してもらう。
これは逃げではなく、文化的コンテクストを味方につける技術だ。
人は「?」を見ると、自動的に“考えている”と認識する。
つまり記号は、思考のショートカット。
私にとっては、実務的にも心理的にも頼もしい味方だ。
思案のポーズを描くために、私はまず自分が思案してしまう。
これがなかなか骨が折れる。
「考える人を描くために、私が考えすぎる」——
この堂々巡りは、もはや小さなパラドックスだ。
でも、こういう“考えすぎ”の時間が、案外作品の深みをつくっている気もする。
曖昧なものを曖昧なまま描くのは、私は嫌いではない。
むしろ、その曖昧さの中にこそ、人物の気配や性格が滲む。
“思案”という名の霧の中で、どんな光を灯すか。
その選択こそが、私の腕の見せどころだ。
今日もまた、私は「思案する人」を描くために、思案している。
その堂々巡りすら、少し愛おしい。