# イラスト:雨の中を傘をささずに歩く若い女性
イラスト:雨の中を傘をささずに歩く若い女性
「雨の日は好きよ」
母がそうつぶやいたのは、私がまだ小学生の頃だった。
外に出られず、体力ばかり余っていた私は、
なぜか妙にムキになって否定した。
今となっては、あの反応の理由すら思い出せない。
ただ、母の横顔と雨の匂いだけは、
年を重ねた今も、やけに鮮明に残っている。
記憶というものは、どうも気まぐれだ。
初老と呼ばれる年齢に差しかかってみると、
母の「雨が好き」という言葉が、ようやく胸に落ちる。
雨は、それだけで絵になる。
傘、レインコート、濡れた髪、紫陽花、雷鳴、
アスファルトに映る街灯のにじみ。
どれも、静かに語りかけてくるようだ。
晴れの日が「青空」という一枚看板で勝負しているのに対し、
雨の日は、まるで“人生の小道具”を惜しみなく並べてくれる。
若い頃には気づかなかったが、
これはなかなか贅沢なことだ。
雨の日の人間は、年齢に関係なく、どこか物語めいて見える。
傘の下で立ち止まる人
濡れた前髪をそっと払う人
水たまりを避けるつもりが避けきれない人
レインコートのフードに視界を奪われている人
どれも、少しだけ“演技”をしているように見える。
雨は、日常の動作に勝手に演出をつけてしまうのだ。
晴れの日に「ただ歩いている人」を描くと、
どうしても“ただ歩いている”で終わってしまう。
しかし雨の日なら、同じ人物が急に主人公めく。
雨粒がスポットライトのように降り注ぎ、
背景の世界が少しだけ深みを帯びる。
雨は、はっきりしない。
降ったり止んだり、強まったり弱まったり。
その曖昧さが、年齢を重ねた今の私には心地よい。
若い頃は、曖昧さを嫌っていた。
白黒つけたがり、答えを急ぎ、
雨のような“揺らぎ”を理解できなかった。
母は、あの揺らぎを楽しんでいたのだろう。
外に出られない不便さと、家の中の静けさ。
濡れる煩わしさと、景色の美しさ。
相反するものが同居する、その余白。
今の私は、その余白に救われている。
雨の日に外を歩くと、
ふと、あの日の母の声がよみがえる。
「雨の日は好きよ」
あのとき否定した自分に、今なら苦笑いができる。
そして、ほんの少しだけ胸が痛む。
だがその痛みすら、雨の匂いにやわらいでいく。
雨は、記憶の輪郭をやさしくぼかしてくれる。
曖昧なまま、そっと包んでくれる。
今日もまた、私は雨の情景を描きながら、
あの日の母のつぶやきを思い返している。
この堂々巡りすら、どこか愛おしい。
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